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「選択」事件とは (2004年9月号)
 今年4月20日、政官財のエリート層に多くの読者を持っていた会員制情報誌「選択」を発行している選択出版の子会社・選択エージェンシーの営業部長が、厚生労働省職員への贈賄容疑で逮捕された。6月8日には同容疑で、同社の尾尻和紀社長が逮捕されている。厚労省の補助金で製作されるビデオや冊子を入札のない随意契約で受注。破格の収益を上げていた一方で、「監修料」などの名目で厚労省役人に還流していた容疑。会社設立間もない選択エージェンシーがこうした仕事を受注できたのは、雑誌「選択」の厚生労働省人脈や影響力を背景にしたもので、税金を食い物にした違法なビジネスとして指弾されている。
 さらに、選択エージェンシーが主導して「癒しと安らぎのフォーラム」なるイベントを開催。その協賛金集めにも同様な「選択」の影響力利用への批判が集まっている。その上、実行委員会会計である協賛金の1部を選択エージェンシーの収益にしている疑惑も浮上している。
「選択」では、昨年12月から今年3月にかけて相次いで編集長が解任されている。その1人で、前述の選択エージェンシーの営業手法を選択出版の湯浅正己社長に諫言したとされる阿部重夫・元編集長は、4月1日、同氏や家族への「家族全員が血祭りになりますよ」等の脅迫状などを証拠に「被疑者不詳」のまま脅迫容疑で刑事告訴している。
 一連の問題に湯浅社長は「子会社の問題」「過剰信頼していた」等、自らの責任や雑誌の影響力を利用したビジネスへの批判をかわしているため、雑誌「選択」そのものへの批判が高まっている。(編集部)
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■総合情報誌として評価の高かった「選択」が引き起こした厚生労働省職員への贈賄事件。
その広がりと根深さは悪質だ。そして今、メディアのあり方そのものが問われている──
 
 クオリティーマガジンとして評価の高かった「選択」を発行してきた選択出版社長である湯浅正己君の倫理観は、本当にどうなってしまっているのだろう。この手記をお引き受けしたときから、そのことを問題にして、その倫理観のなさが今回の「選択事件」を引き起こした元凶であると指摘してきた私ではあるが、あらためてその無神経ぶりと無責任さを嘆かずにいられない。
             ◇
 これだけ問題を指摘され、世間から指弾を受けながら、居直りを決め込んでいるとは何とも情けない。そして、その非に未だに気付かないとは……。「選択」は、こんな湯浅君のような態度を決して許す雑誌の論調ではなかったはずだ。いや、このたびの雑誌の力を利用した金儲け、それも法を犯した、倫理観のない金儲けなど、「選択」は何があってもやってはならないことだった。それが文字通り存立の基盤、根幹であったはずだ。
 それなのに9月号(9月1日発売)の「選択」で湯浅君は、またもや「子会社のこととはいえ、たいへんな不祥事を起こしたのですから、何を書かれても仕方ありません。それにしても、ためにするだけが目的のあからさまな捏造記事の多いこと」などと、自らの責任を「子会社」に転嫁している。その上、湯浅君が投資に失敗して経理に大穴をあけ、資金ショート寸前などと書かれたことを持ち出しながら、失敗どころか「実際は逆」と、投資で儲けたことまで誇示している。
 私の知るジャーナリストはかつて、「マスコミに係わるものやジャーナリストは、絶対に金儲けを目的にした投資などやってはならない。株などはもってのほか。インサイダー取引になりかねないし、筆先が鈍る」と言っていた。その通りであろう。「選択」を発行している会社が金儲け目的の投資など、本来はやってはならないことではないだろうか。それが自覚できずに「投資で失敗(実際は逆)」などと居直る姿ひとつとっても、湯浅君にとっての「選択」発行の意図は、その建前とは程遠いことを示しており、この姿勢こそが今回の「犯罪」を引き起こした要因と言わざるをえない。

湯浅君の指示で進んだ選択エージェンシー設立

 さて、先月号に引き続いて、湯浅君の売り上げ増要求、つまり金儲け提案を断った私を排除するかのように、湯浅主導、飯塚(昭男・元社長)黙認で密かに進んでいた1社2営業部体制のからくりを書こう。「選択出版社分室」を名乗りながら、このからくりを担った「オリトプラン」という会社こそ、今回の事件を引き起こした湯浅君言うところの子会社、選択エージェンシーの事業姿勢につながっている。
 オリトプランが選択出版とは別に銀行口座を作って「選択」の購読料金まで入金させ始めたことを知った私は、すぐにそれを仕掛けていた尾尻君(和紀・選択エージェンシー元社長。選択事件では贈賄罪で公判中)を呼び出して問い正した。「尾尻君よ、泥棒を飼っているとはこのことだな! 金の流れは正直なもんだよ。よくここまで考えて乗っ取りをやってくれるもんだな!」
 すると尾尻君は、直立して震えながら、こう弁解した。「全部、湯浅さんと相談してやっているんです。私は、もう大日本印刷も辞めます。これからは(選択出版で)伊月さんに勉強させてもらって……」「何を言うか! これは、重大な背信行為じゃないか!」
 こう怒鳴りつけながら私は、湯浅君がここまで金儲けにこだわっているのかと思い、「ああ、この会社も先はないな。年間売り上げ10億円を達成したら、私の役目も終わりだ。それを潮時に辞めよう」と、心の中で改めて決意した。そして、もはや湯浅君を諌めることもせず、飯塚には機会あるごとに「後継者を作れよ」と言いながら、私自身は毎月の部数増加に奔走し、事態の推移を見守っていた。
 その後、尾尻君は、予定通り選択出版に転職し、湯浅君の指示・計画通りに選択エージェンシーを作っていった。そしてオリトプランの名目上の社長だったTも、選択エージェンシーの営業部長に抜擢された。
 選択エージェンシーを作る前に尾尻君は、私に会社設立を承認してもらいたいと、「提案書」という形でその計画を示してきた。いま手元に残っているそのコピーを見れば、そのときの心情も蘇ってくる。

「選択事件」を誘発した湯浅君の「金儲け」執着

 その提案書では、尾尻君を代表取締役にして役員には湯浅君を据えるという役員構成が示され、赤坂に新たな事務所をもって始めることなど簡単な計画が書かれていた。この時すでに、すべて湯浅君の指示で動いていたうえに、飯塚も湯浅君のやることに対しては暗黙の了解をせざるをえない状態だったから(経緯は後述)、その「提案書」を見た私は、ただ1つだけ注文を出した。「業務内容」の項目に「選択」の広告の1部を扱うことや拡販協力とあるのはよい。私が専務として担当してきた選択出版の営業部門との問題は、調整すれば混乱も避けられるだろう。だが、その1項目に「これに付帯する一切の業務」とあったのは認めるわけにはいかなかった。
 私は尾尻君の提案書のその項目の上に「ダメ!」と大書して返答した。
 私にはその時、これを認めれば湯浅君は何をやり出すか分からないという危惧があった。なぜなら、湯浅君はこの頃、選択出版から単行本を出したくて仕方がなかった。それも、出版社の持つ文化的役割を実践したくて出したいのではない。「選択」で連載したものなど原稿があるから、それを単行本にして出せば儲かると、単純に考えていたのであろう。
 だが、単行本の出版はそんなになまやさしい商売ではない。返品覚悟で配本する販売の苦労を私は十分承知している。とても当時の選択出版の力量でやれることではないから、それまでの湯浅君の素振りにはまともに取り合ってこなかった。私の目の届かない仕組みを作って、それをやろうとしていることは見え見えだった。
 それでも、あのときに単行本の出版を認めていれば、苦労して成功するにしても失敗するにしても、湯浅君は本当の経営の苦労を理解でき、真っ当な金儲けというものがいかに難しいことかを学んだかもしれない。そうすれば、今回の、国民の血税を濡れ手に泡の商売で吸い上げるというような卑劣な口銭商売には突き進まなかったかもしれない。「選択」という雑誌の評価を利用して法外にお金を集めるような裏切りにも至らなかったかもしれない。
 だが、現実には、販売、営業の苦労も知らないままに経営を握り、「選択」の成功を背景にして「金儲け」に執着した彼は、とうとう「選択事件」を引き起こしてしまった。

飯塚・湯浅コンビもすでに絆は切れていた

 湯浅君はどのようにして選択出版で主導権を握り、ここまで金儲けに執着するようになっていったのか。結果として「選択事件」といわれる犯罪を引き起こし、一方では雑誌の力を背景にして企業からお金を集めるようなことをしてきたのはなぜなのか。その本質である湯浅君の野心を理解するには、湯浅君という人間の観察が必要であり、「選択」創刊の経緯にさかのぼってみる必要がある。
 もう随分前から、いや、よくよく考えてみれば、「選択」創刊の早い段階から飯塚は、湯浅君の手の内にあった。高級誌を作りたいという思いだけの飯塚には、いろいろな意味で湯浅君の力が必要だった。編集長を務める飯塚自身は評論家、書き手として「『選択』の顔」になっていても、実際の編集作業という雑誌作りの実務となると、湯浅君に頼っていた。
 構想や企画だけでは、あるいは原稿が集まるだけでは雑誌は発行できない。それを十分承知していたのだろう。だから、「2人で一人前」と思われるほどの絶妙なコンビを装うしかなかったのだ。共にプライドは高い2人だった。それが、信頼からではなく自分のマイナスを補完してくれる人としてお互いに寄り添っただけなのだから、実は、「選択」の発行が順調になるに従って絆は切れ、その心は離れていった。
 選択出版の社長、編集長として飯塚は、華やかな部分ともいえる「『選択』の顔」を務めながら個人の評価も高まる。一方の湯浅君は、本心はたいへんな野心家であるのに、逆に自らを「自分は黒子役向き」だと強調しつつ実権を握ることで自己満足するしかない。簡単に言えば、これが前回も書いた「2人で一人前」の関係だった。
 そんな2人だったから、その片方の飯塚が亡くなった後、私には、「やはりこうなってしまったか」という思いが消えない。そして、その責任は、湯浅君だけにあるのではない。責任の一端は、あえて、亡き飯塚にもあるといわねばならない。
 飯塚は、自分と湯浅君の役回りを十分承知で、もはや湯浅君がいなければ「選択」の発行はどうにもならないことを知っていたがために、その湯浅君の暴走を生前から分かっていながら止めることができなかった。この2人の奇妙な関係も、今回の「選択事件」といわれる一連の不祥事の遠因となったといっていいだろう。
 飯塚は、10年前に「(「選択」は)人が育たなければ終わりでしょうし、育てば継承していく。後4、5年の勝負じゃないですか。できなければ雑誌を廃刊するしかないでしょう」(「インテリジェンス」1994年12月号)と「後継者育成」の必要性を語っていた。
 その飯塚も、湯浅君の前では、とうとうそれができなかった。飯塚が後継者にと考えたであろう阿部重夫・元編集長は、飯塚の生前から目の前で湯浅君に潰されて、飯塚亡き後の昨年12月にはとうとう解任されてしまったのだから、飯塚には、ただ単に「不徳の致すところ」という以上の責任があったことは否めないだろう。
 今思えば、飯塚の遺言のようなこの決断も、心が通い合っていなかった「2人で一人前」の片割れの湯浅君には、何の意味もなさなかったことになる。

創刊1年目で800部 破綻寸前だった「選択」

「選択」創刊時を回顧しよう。
 湯浅君は「選択」がすっかり市民権を得て、編集も営業も含めた経営のすべての実権を握ってからは、当初から1万人の予約購読者を集めてスタートしただの、それができたのは「多くの良き酔狂人がいらっしゃったから」(2001年1月号)などと書いていたが、とんでもない話である。最初は売れずに、まったく商売にならない雑誌だったことは、湯浅君もよく知っているはずではないか。
 そもそも、年決めの定期購読料金が12,000円と聞いただけで、ほとんどの方は逡巡された時代だったから、誌面の評価がそのまま有料購読に結びつくなどというものではなかった。誌面が良い、雑誌が良いなどというのは、作り手の自己満足にすぎない、単なる思い上がりの域のものだったのである。
 何とか集めた資金で創刊したものの、1年目に「選択」を有料購読してくださった800人そこそこの購読者からさえ2年目以降も継続して購読するという確約は取れず、破綻寸前に至っていたのが実情だったことを、湯浅君は、よもや忘れてはいないだろう。
 昭和50年(1975年)3月。2年間ほどの準備期間を経て雑誌「選択」が創刊された。「選択」創刊は、簡単に言えば、三鬼陽之助氏の創刊した雑誌「財界」の内紛が発端であることは、つとに知られている。私は、その真相は知らない。だが、その頃、湯浅君も含めた5、6人がたむろして連日のように両国にあった飯塚の実家に集まり、密議を凝らしていた。飯塚の妹を妻にしている私は、女房の実家であるからそういう場を何度も目撃しうすうす様子は知っていた。
 そのうちに湯浅君が「財界」をクビになったということが伝わり、私は義母から「昭男も皆と一緒に『財界』を辞めるといっている。何とか辞めないように言ってくれないか」と相談された。
 当時飯塚は、若くして「財界」の編集長に抜擢されていた。もの書きとしての評価も出始めており、私にそれを伝えてくれる斯界の大先輩もいた。
 義弟とはいえ年齢は私のほうが上。しかも、私は妻と語らって「文筆家は専心第一」と飯塚を気遣い、彼が本来介護すべき祖父母を死水を取るまでお世話したこともあって、肝胆相照らして語り合える間柄だったから、飯塚に「君はポジションがあるんだから、結果はいいことにならないよ。辞めてはダメだ」と言って強行に説得した。
 しばらくして、当時、産経新聞社の社長をしていた稲葉修三さんが私に「飯塚君は三鬼さんの所に戻ったよ」と耳打ちしてくれた。だが、これで落ち着いたと思っていたら数カ月して飯塚は、「俺は円満退社したよ」と言ってきた。
 結局、飯塚や湯浅君たちは、先輩の伊藤肇さん(経営評論家・故人)を担いで新しい雑誌を発行し、「財界」に対抗する道を選んだのである。そのために、親類縁者はじめ、経済界などの支援者からも資金を集めた。A社から何百万円、B社から何百万円と支援金を集めたのである。一説にはこの時点で1億数千万円集めたなどと言われてきたが、実際にどのくらいの資金調達ができたのか、私は正確には知らない。ところが、中心となると聞いていた伊藤肇さんは、間もなく創刊話から降りた。そのため飯塚が中心になってやるしかなくなっていった。
 当時、飯塚の母親は、彼らの話が全部聞こえてしまうものだから、「世間からこんなことをしてお金を集め、返せなくなったらどうしよう。知り合いにもお金を出させてきて、成功しなければ、私はクビを吊らなければならない」と、それはそれは心配をして、私に再三相談に来ていた。
 そんな状態だったから、創刊したときはまだ、前金を払ってくれる予約購読者も800人くらいしか獲得できていなかった。今、湯浅君が言う「酔狂な人が1万人もいた」などという悠長なスタートとは程遠い綱渡りというのが本当のところだったのである。

「100%良い雑誌を作れ、売る自信は100%ある」

 創刊の翌年、昭和51年の正月。飯塚の家族が私の家に来て、2晩泊まった。この時、私たちは2人でじっくりと話した。
 飯塚の弁明では、創刊してからは毎月800万円前後の赤字で、この3月が来れば資金も底をつくところまできているという。しかも、親戚やら取材先やらで確保した創刊1年目の予約購読者は、誰も2年目にまた、もう1度12,000円を出してくれるかどうか分からないから、お先は真っ暗。このままでは3月の購読切り替えが恐ろしいと、頭を抱えていた。一生懸命営業をしても、創刊の年の暮れでまだ1,000人の購読者が集められない状態だという。
 私は、「資金は、あとどのくらいもつのか」と聞いたところ、「精一杯持ちこたえても4、5カ月かなあ。失敗すれば全部の人に迷惑がかかる。雑誌が出なくなった瞬間が恐ろしい」と言うのである。そして、飯塚はしみじみと、こう打ち明けた。
「本当に良い雑誌を作る自信ならば、100%あるが、売る自信がないんだ」それを聞
いて私は、
「これまでのような片手間のアドバイス程度ではとても軌道には乗せられまい。さりとて即刻、会社を辞めて手伝う非常識はできない。よし、3月末まで勤務しながら根回しをして、4月から『選択』に本腰を入れよう」
 そう決断した。そして、進退きわまっている飯塚に、こう告げた。「本当に良い雑誌を作るんだな。よし分かった。俺は、売る方なら100%自信がある。今、ここですぐに500部増やせば、前受け金が600万円入ってくる。俺が、俺の財産ともいえる人脈を総動員して、これからコツコツと新規読者を増やす。半年で3,000部増やせば、今年の暮れには6,000部から7,000部にできる。俺が本腰入れて販売をやるから、この際、編集実務は湯浅君に任せて、昭男ちゃんは俺の言う通りにしろ。いいか、これからは俺が集める会合に出て雑誌の説明をしろ。そして、とにかく国益を訴えろ。『選択』が国益を考えた雑誌であることだけを説明すればいい。君は編集長だけど、経営者だ。『選択』の看板なんだから、これからは俺と一緒に歩け。そうすれば俺が、お金はあとから必ずついてくるようにするから」
 昭和51年(1976年)4月1日。私は、草創期までの助言者としてではなく、専務として正式に選択出版に入社した。この日、飯塚と湯浅君は、社長への挨拶もあり、私の在籍していた会社まで2人揃って迎えに来たものである。
 そして、初めから湯浅君は、
「飯塚さんと伊月さんは義兄弟なんだから、伊月さんは副社長をやればいい。私は、裏方でいいんですから」
 と、口にした。しかし、私は、
「私は販売の第一線で働くんだ。肩書が必要なら専務でいい。だいいち、『副』などとつくものは嫌いだ。副社長なら君がやればいい」
 そう切り返した私に、湯浅君は、いかにも肩書嫌いの素振りをしながら、実はその頃すでに選択出版とは別に「ジャーナリスト・ビューロー」という会社を作って社長になっていた。その後、分かったことだが、この会社は、湯浅君が新聞記者など「選択」への寄稿者たちと交流し、飲食費や取材費を出すことでコントロールするためにあった。それをなぜか飯塚も、私に打ち明けていなかった。
 経理の実態は知らないが、湯浅君は経費を自由に使うそんな会社を持ち、嫌いなはずの社長の肩書を持ちながら、それを私には隠していたのである。これも、彼があえて黒子を装う姿勢の1つだったのだろう。

知名度の上がる飯塚に対し鬱屈した湯浅君の野心

 正式入社の直後から私は、2人に毎月1度、部数の増減など経営上のことについて打ち合わせをする会議をしようと提案し、することに決まった。ところが、事前に決めていた1回目の会議の時に湯浅君は、予定時刻に席につくや、いきなり立ち上がり、「今日は取材があります。遅れると相手に失礼ですから、後は2人で適当にやってください。おふたりで決めてくだされば、すべてそれでいいです」
 と、そそくさと出て行ってしまった。その後も2度3度と同じことが続き、以来私は、平成7年(1995年)4月に退職するまで、毎月の部数の増減などをすべて2人に「報告書」として文書で提出してきた。
 その私が退職する前、湯浅君が当時は大日本印刷で「選択」を担当していた尾尻君を使って、おかしな販売契約を始めたことを知った経緯は、すでに書いた通りである。
 その時も、それを湯浅君に問い詰めようとするが、逃げ回っていて話ができない。そこで、飯塚に話しに行くと、彼は、周りに誰も聞いている人がいるわけでもないのに、こそこそと話しながら紙切れを取り出し、そこに「事務的に」と走り書きをして私に見せた。その意味するところは、湯浅君と話すときには何でも「事務的に」やれということだった。
 そこで私は、「昭男ちゃん、君自身はどうなんだ。ちゃんと話をしているのか?」と聞くと、彼は、机の横の低い位置に下げた手のひらの上の紙切れを指差しながら「俺もこれだよ」と、笑うだけだった。
「選択」の顔として知名度もあり、講演や執筆で個人的な稼ぎもある飯塚に対し、実質的に「選択」の編集を切り盛りしていながら世間的には望み通りの「黒子」でしかない湯浅君の野心は、あるいは鬱屈し、歪んだ形で発露されてきたのではないか。そして「選択」の稼ぎ出す金は自分のものという思い込みで、さらに金に執着していったのが湯浅君の今の姿であろう。
 これが2人の本当の間柄だったのである。

創刊4年目でようやく購読数が1万部到達

 思えば彼らに与(くみ)してから29年。ああ、まさか? が起きてしまった。創刊直後、破綻寸前での飯塚の告白は、一体、何であったのか。飯塚・湯浅2人が揃って私の会社に迎えに来た、あの日のことは一体……。「喉元過ぐれば、熱さ忘るる」であったのか……。
 雑誌を売るのに奇策はない。ただ、私事で恐縮だが、私は、小学校は徳島、次いで大連で2校、そして北京と4校も転校し、中学も北京中学から徳島の旧制中学へと2校、新制高校も2校と転々。昭和29年に中央大学を卒業して産経新聞東京本社に入り、販売一筋に約20年。東日本全域を知り尽くしたことが何より幸いした。「選択」に本腰を入れてからは、この間に出会った竹馬の友や同窓会関係者など、多くの方に支えていただいた。
 私は毎月、たとえ1部たりとも減らすことなく、辞めるまでの22年間、減部数を上回る新規部数を獲得し続けてきた。ただただ、一途に「選択」を売ってきたのである。
 今でも私の手元には、「編集長(注・飯塚) 湯浅氏」に宛てた、毎月ごとに集計した部数の増減報告である「業務日報」の控えが残っている。
 それを見れば、入社直後の昭和51年(1976年)6月時点での有代部数は4,566部。私は、「選択」への参画を決意して以降、3,500人近い読者を獲得し、資金を捻出して乗り切ったのである。
 翌52年4月には個人の年間購読が6,751部、企業分が447部で合計、7,198部に到達していた。もちろん、この時点でさえ、残念ながら湯浅君が言う1万部には届いていなかった。
 1万部を超えたのは、さらに翌年、53年4月のことで、この時、個人購読数が7,477部、企業購読が2,941部で合計1万418部になったのである。
 その後、昭和62年の4月には、個人購読3万31部、企業購読4,718部で合計3万4,749部に到達している。
 私が辞めた平成7年5月には、刷り部数は7万7,000部。日本航空の買い上げ分や単品売り用の在庫分、その他、大口割引での買い上げ分を除いた通常の有料購読部数は6万7,503部になっていた。年間売り上げは、広告収入を含めて私の決意通り10億円に達していた。それだからこそ私は、誰に遠慮することなくクオリティーペーパーとして自由にものが言える「選択」を世に問う磐石の経営体力を見届けて、お役御免と退職した。
 湯浅君自身が書いているように、雑誌はお金を出して買ってくださる読者がいなくては始まらない。「選択」は、その読者の固さが磐石の経営基盤になっている。経営を支えてくださっているこの多くの読者に、湯浅君はどんな感謝の気持ちを持っているのか。
 昭和61年(1986年)夏。私は「選択」販売のために訪問した千葉県経営者協会で急性心不全となり、救急車のお世話になった。この時も入院した病院で購読者の増減報告や入金状況、申し込みカードのチェックなどをしたが、見舞いに来た飯塚は、「俺も伊月式の拡販推薦ノウハウを実践してみたい」と言い出し、自分が無理を言って頼める4人の方にお願いをして私のやってきた販売方式を自ら体験した。自分で根回しをして紹介者への推薦文をいただき、献本をして3カ月後に購読申し込みをいただくという手間隙のかかる推薦拡販を、飯塚が社長としてやったのはおそらく最初で最後だろう。
 私の知る限り、湯浅君がこうした販売努力を積極的にしたことはない。編集に専念し、評価の高い雑誌を作ってきたと言いたいだろうが、それだけでは経営は成り立たない。それができたのは、こうしたお金を支払って「選択」をお読みくださる読者があればこそである。湯浅君にそれが分かっていれば、推薦役を引き受けてくださった方や読者の大切さを自覚するはずだ。
 前回のこの手記で、私が退職するときに飯塚と尾尻君に「私の指示があるまで他人には見せないように」と言い添えて渡した、「選択」創刊時からの「個人推薦による拡販ご協力者と申し込み部数記録」と「諸団体拡販記録」の2つのリストのコピーが、尾尻君を通じて湯浅君に渡っていることを書いた。
 湯浅君は今、このリストをどんな気持ちで眺めているのか。
 そこには後に首相となった方や自民党幹事長になった方、さらに経済人から個人的なお付き合いの方まで、実にたくさんの方が「『選択』の個人推薦人」になってくださって年決め定期購読者を紹介してくれた蓄積が記録されている。そこに君の足跡がいかなる数字で示されているかは問うまい。だが、君は今、こうした方々に土下座してお詫びしなくてはならないのだ。

「選択」の実績があるゆえに責任が重く問われた事件

 今回こうして手記を書いたことで、かつて私が「選択」の購読をお願いした多くの方から反応をいただきました。「世間を騒がせている『選択問題』が何であるのかようやく理解できた」と言う方たちからいただいた励ましは実にありがたく、予想だにしていなかったご好意あふれる書簡や電話に感涙に咽(むせ)びつつ明け暮れる日々が続いております。
 ただ、そうしたお声の中で、私の胸に重く澱のように残って離れないのが、「いまさら湯浅さんの個人攻撃などやっても仕方あるまい。そんなことをするのは伊月さんらしくないよ」というご忠告でした。
 人の批判をするのは決して気持ちのいいものではないし、私とて、人様のことを批判できるほどの人間ではない。現役を引退して9年、1級身体障害者として自適の閑ある生活のリズムを狂わしてまで、このような形で「選択」の過去について書くことなどしたくはなかったし、するようなことになろうとは思ってもいなかった。
 しかし、全国のたくさんの方々に購読をお願いし、長いこと読み続けていただいている「選択」は、今回のような事件を引き起こしてはならない雑誌であった。それどころか、こういうことをしている雑誌やビジネスがあれば、率先してそれを糾弾して社会に警鐘を鳴らしてきたものです。そして、国益を標榜しながら、堂々と日本の行く末をも左右するような論陣を張ってきたと自負していました。
 この思いがあればこそ、私はこれまで誇りを持って「選択」の購読をお願いしてきました。そればかりか、「選択」の購読推薦をお願いするために、たくさんの方々のお力をお借りしました。そうやってお世話になった方々はもちろんのこと、何よりも「選択」を信じていただいた読者に、今回明らかになった現状を私なりに分析し、その責任を問うことは、「選択」を育ててきた1人として、私の使命であると考えたのです。
 雑誌「選択」が引き起こした事件は、単に厚生労働省の役人への贈賄という刑事事件であって、逮捕された当事者が罪を償えばそれですむという次元のものではありません。
「選択」にとっては、雑誌がこのまま存在を許されるか否かを問われるほどの重大な事柄なのです。
 それほどに根は深いし、深刻です。「選択」のこれまでのすべての実績が問われ、責任が問われていることを思うにつけ、湯浅君が「選択」の志を裏切り、今もなお無責任な居直りを決め込んでいる以上、今回ばかりは、あえて私自身が事の本質、問題の重要性について書かなければならなかったのです。
 でき得れば、この手記が単なる湯浅君への個人攻撃と受け止められることなく、私の問題意識が伝わることを願ってやみません。(完)

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